天皇家の初期の歴史

令和天皇即位したね。というわけで、天皇家の歴史について紐解いてみようと思う。

初期の天皇で重要な人物を挙げてみる。

1)神武
21)雄略
26)継体
38)天智

神武は東征で有名な初代大王、雄略は大和王権を確立した大王、継体は大和王権を刷新した大王であり、天智で天皇家を確立し、これらの家系が大王ではなく天皇と呼ばれるようになる体制を作った。

実は神武と雄略は同一人物で九州倭国の倭の五王と呼ばれる王の最後の武であり、継体は大和王権からその武の影響を排除、つまり、九州を排除して畿内独自の政権に作り替えて、最後には九州を征伐して日本の統一を果たしたのである。その後、政変を繰り返して、天智のときに安定した天皇を頂点とする国を作った。

最初に一つ断っておかないといけないのは神武や雄略は五王の武と同一であるものの、天皇家の人物として組み込まれてはいるが、武は大和王権での大王にはなっていない。

また、初代の神武は皇紀元年の紀元前660年の人とされているが、詳細は省くけど、古代は1年を春秋で分けて2年と数えていた。これを半年暦と言うが、それを元に計算すると皇紀元年は西暦100年ぐらいを示している。倭の五王の武は中国の歴史書によると西暦500年ぐらいなので、武は初代神武であるから、皇紀元年が天皇家創始の年であるのもまた虚構である。

まとめると、

A)1:神武~21:雄略~25:武烈の時代→九州の影響力の元、畿内で王権が成立した。
B)26:継体~37:斉明の時代→畿内独自の王権になって九州王権を属国化して日本統一をなした。
C)38:天智~の時代→万世一系の天皇体制が始まった。

と区分できる。

次に前提となる話を述べる。

古代の日本は、各地域が地形的に山川湖沼で隔てられている一方、自然環境的に温和で豊かなことにより各地の地力が高く独立性が強く、軍事的な力による統合が困難な状況にあった。そのため、地方分権的に各地で勢力が割拠して、交易などで経済的には大域的には繋がっていたが、政治的には分立していた。

日本人は賢く平和的で、先進的な技術への欲求は強い一方、技術は共有して、お互い繁栄を享受し合い、そして、戦争を行うなどして身分差を作ったり支配の構造を作ることはしなかった。

しかし、中国の知識が頻繁に入ってくる九州では、各地で戦争が頻発し、王権が成立し、そして、周辺他地域への戦争も積極的に行った。ただ、九州は倭国として統一後、日本国内の東国への拡張は前述による困難さもあって行わず、また、文化的技術的先進地域の中国へ近くなる方向を望んで、朝鮮半島へ進出した。更に付け加えると、朝鮮半島南部は九州の住民である倭人が元々多く住み着いていた地域であったので、倭人の住民を足掛かりに半島への拡大を行った。

九州が半島への拡大を最も積極的行ったのは、九州がようやく統一された後の、倭の五王の時代になってからである。この時代は中国が戦乱に呑まれて、半島が中国の政治的な影響から離脱した空白地の状態であり、倭国は北の高句麗と半島の支配権を巡って争った。半島南部の百済、新羅といった国は倭国の勢力圏内にあったが、徐々に百済、新羅が倭国から独立して行動する傾向が強くなり、倭国の半島での勢力圏が狭まっていく流れになった。

一方で九州以東の中国、四国、畿内、中部、関東などは各地では独立した勢力が割拠してはいるものの、あまり戦争は起こらず、平和的に諸地域が関係する時代が長く続き、その経済的な余裕な状況から多数の古墳が各地で独立に作られる状況にあった。ただ、古墳造成技術者や労働者は各地を移動しながら古墳を作る環境にあった。

倭の五王の最後の武は半島での覇権争いで閉塞的な状況に陥り、東国へ支援を求めて周遊することになる。武は各地で歓迎を受け、一方で、各地でいろいろな活躍を行い、英雄視されて、人々の心に刻み込まれていった。武は和名でワカタケルや武の出身地であるヤマトを付けて、ヤマトタケルと呼ばれた。武は最終的に関東まで周遊を行い、九州と東国との交流を活性化させ、九州が蓄えていた中国由来の知識を東国へ浸透させた。これにより東国で王権の成立が加速することになる。

特に武は畿内での王権の成立に強く貢献した。しかし、王権の成立は各地、各部族の討伐も伴い、武はその過程で東国での平和な関係を大きく毀損した。武の手法は東国の人々にとっては汚かったのである。それが後々怨恨を残すことになる。少しだけ付け加えると、王権成立の過程での討伐はほんの一部で他の地域は王権を個別に主張する野心も意義も持ってはいなかったから、自然と畿内の王権に従っただけである。戦争によって屈服させて支配するという構造は日本についてはあまり当てはまらない。日本人は権力を持つ者の正統性を各人、自身で認めれば、自然と従うそういう性質なのである。武の名声の甲斐があったのかもしれない。

武によって畿内で強力な王権である大和王権が成立した。ヤマトは武の呼び名から取られたものである。また、武は九州の王であるので、畿内に残ろうとはしなかったが、有力者との間に子種を残し、武の子孫の何人かは大和王権において大王になった。

武が九州から東へ旅をして大和王権を成立させた功績を元に記紀において東征を行った「神武」が作られ、王権成立の功績を元に王権強化が描かれる「雄略」が作られ、各地での英雄的な活躍を元に「日本武尊」が作られ、武の強引な手法から暴虐非道な「武略」が作られた。記紀は、天智以前の多くの大王をこういう仮想的に作られた人物や各地の有力者を当てはめ、年代などを変更して天皇家という家系の一員として紡いだ一大物語の傾向が強い。

武は最終的に大和王権の大王になったわけではないが、その偉大な事績を元に天皇家における複数の人物として仮想的に作られたわけである。それほど、武が大和王権に果たした事績は大きいのである。

畿内から武が去ってしばらくすると、武の強引な手法によって掻き乱されて恨みを抱いていた畿内の有力者らが政権内における、武の影響、つまり、子孫の排除を行った。そして、大王となったのが継体である。継体大王は畿内の粛正を完了すると、怨恨を晴らすために九州の討伐を行うことになる。

経済力的には畿内が九州を圧倒していたために、九州倭国は畿内の大和王権に征服され、倭王は筑紫君に格下げされることになる。これが磐井の乱である。乱と言っても、九州で反乱が起きたのではなく、畿内が侵入してきて征服しただけである。日本は九州と畿内とで2つの王権が存在したが、畿内が九州を征服したことにより、事実上、日本が統一されたことになる。そして、九州の倭国は独立性を失い、半島への関与もできなくなった。そのため、半島では百済と新羅が領土を拡張し、倭国直轄の任那は縮小していくことになる。

その後、政変を繰り返して、天智大王が天皇家の創始者になる。おそらく、天智はそれ以前の大和政権の大王とは男系で繋がっていない。天智は、半島を拠点にしていたが、一応、倭人である中臣氏に担ぎ上げられた大王でしかない。また、継体から斉明まで何回か血統が切れたりしたが、天智の後は血統が長期にわたって続くことになる。ただ、天智の後の天武でまた血統が切れるが、その後、天智の血統に戻る。天皇家の万世一系は天智から始まったと見なせる。

というような家系が天皇なわけ。

天皇家は紀元前660年に始まったわけでなく、大体、西暦700年ぐらいから。そして、畿内を中心とする王権が始まったのは西暦500年ぐらいから。それ以前は九州以東は悪く言えば政治的には原始的で、良く言えば平和な世界であって、九州だけが王権や地域での覇権争いをしていた。九州も統一されたのは西暦400年ぐらいでそれ以前は九州の北部地域しか統一されてはいない。3世紀の卑弥呼の時代の倭国は九州の北部半分未満しか支配圏がなかった。

一般に言われている天皇家の歴史とは違うけど、自分はこう妄想してるし、これが正しいと思ってる。

極東アジアの三大言語

またまた、門外漢が直感と妄想で語るわけで。

極東アジアは主に日本語、中国語、モンゴル語に分けられる。中国語は孤立語だが、元は膠着語で多数の膠着語が合体して孤立語化してできた。一方で日本語とモンゴル語は膠着語であるが、この2つの言語は明確に分けられる。

モンゴル語はここでは朝鮮語や満州語などを含める。本来はアルタイ諸語と言うべきなのだろうがここでは極東の範囲を考えるのでモンゴル語とする。自分はあまり知識がないので属格に焦点を向けるとモンゴル語では属格の助詞が i と共通になってる。

一方で日本語は属格の助詞は「が」、「の」、「つ」と3つもある。この特殊性から日本語はモンゴル語とは区別される。そして、属格が3つあるってことは3つの言語の複合とも言えるのである。

まず、「つ」は何となく「的」とかの中国語からの流入である。おそらく、中華系渡来人が来るようになってから日本で使われるようになったかと。まつげや中つ国など特定の語や古い言葉に見られるだけだが、あまり日本語としては定着しなかった。漢語的で新しく入って来た属格助詞だからであろう。

「の」は匈奴国(ヒュンニグク)など「奴」に当てられてたり、トルコ語の in とか un とか助詞と見れば、アルタイ諸語、つまり、北方系由来とも思えるが、実は縄文語由来である。縄文人が固有に持っていた助詞であるが、縄文人が北方人に影響を与えたか共通に持っていたかの助詞なんであろう。本来持っていた助詞なために最後に現代日本語での主流の属格の助詞になった。

「が」は古代膠着語系中国語からのものと思われる。根拠は?直感だね。江南人のものじゃね。江南人が入ってきたのは3000~4000年前なので縄文人ほどではなくも古いため、「の」に次ぐ助詞となった。この辺の根拠は中国語や中国の少数民族の言語をよく調べれば見つかるかと思う。

日本語は縄文語を基礎に古代膠着語系中国語が混じったものであるが、古代膠着語系中国語は中国では消えてしまったが元より南方系の言語でもあるため、北方系言語に影響を与えたか、共通性を持つ縄文語と古代中国の部族の一派である南方系の言語が混じったものだと言える。ただ、南方系との関係は江南人が入ってきたものではなく、縄文人の祖先が東南アジア地域などにいたときに南方系言語を使っていた西から新たに来た民族につつかれる形で追い出される過程で混じったものかもしれない。そうなると混じりはかなり古くで2、3万年前とかになる。この南方系言語を使っていた民族は一部は東南アジア人に一部は中国人になったわけで。

ここで加えておかなければならないのは、現代日本語の文法構造は漢語の書き下し文化として形成されたことである。漢語が多数入っている前の縄文語に近い日本語は文法も多少違っていたのではないかと思われる。そして、漢語を書き下し文という日本語に直すことの繰り返しにより、縄文語からより論理的な構造を持つ現代日本語へと昇華というか成長していったと思うのである。この点、中国語を自分は全然知らないが、文語が死んで口語に変化していった中国語と比べ、明確で論理的な文語である漢語の影響を大きく受けた日本語は、膠着語というアバウトな言語ではあるものの、かなり洗練されているのではないかと思う。

一般に日本語の成立をツングース系の北方系言語とオーストロネシア系言語の南方系の混合に求める傾向が強いが、縄文人が日本に住み着いたのが極東ではかなり古く、縄文語を日本語とするならば極東のツングース系言語もオーストロネシア系言語も全然新しい民族の新しい言語なためにそれは否定される。一方で本末転倒であるが、北方系と南方系の混合でできたという説を補強するために縄文語をアイヌ語に求める傾向も強い。

アイヌ語は抱合語なため、古代で膠着語が主流の極東では特殊であり、アジアにおける抱合語を使う民族の分布を見るとカムチャッカ半島以北の言語が由来としか思えない。そして、アイヌ語自体が日本語の単語の流入で形成されたので、日本語の単語を多く含む一方、それを逆に捉え、日本語がアイヌ語由来の単語を含むと捉える主従逆転の発想でアイヌ語を縄文語にしようと主張する学者も多い。

ということで日本語は北方系のモンゴル語とは成立が異なるのである。一方でモンゴル語は満州語にしても朝鮮語にしてもある程度の文法的な近さはあり、それは一つの言語から分岐したとも捉えられる。

極東ではモンゴル語は別として、中国語も日本語も奇異な成立の仕方をした言語と言える。

 

中国語の成立

自分、言語学者でもなく、勉強もしているわけでもないが、直感と妄想で思うところを書く。

現代中国語は孤立語である。しかし、東アジアの元の言語は膠着語である。古代中国人も膠着語を使っていたと思われる。膠着語から孤立語に変化していったのは、漢字という文字を基礎とする言語として成長したためである。

膠着語という分類もよくは知らないが、簡単に言うと単語に助詞やら格変化の修飾を付ける言語であろう。

別の膠着語の言語間では単語も違うわけだけど、異なる膠着語の言語同士意思疎通するには単語を一緒にするのが一番だが、問題になるのは助詞や格変化を一緒にするのは困難だったということである。

助詞や格変化というのは言語の文法に起因して、文法ってのは変化しにくい。従って、文法の違い、つまり、助詞や格変化の違いを取り除くことが必要になる。

そこで単語だけ並べて、助詞や格変化の部分を削除する。主語や述語、目的語などの順番を固定化することで、助詞や格変化がなくても理解できるようにする。そうしてできたのが漢語である。

ただ、古代ではいかに漢語で書こうともそれを理解するには膠着語の形態に変化させる必要があった。単純に言うと、日本語における漢語の扱い方である、白文を読み下し文にして理解した。白文は読む順番が変化するが、古代膠着語系中国語では白文をそのまま読む中で助詞や格変化を付加して理解した。

助詞や格変化の付加というのは実は漢字の発音に密接に関係している。日本人は漢字を短く単純にしか発音しないが、中国人は四声などを含めて複雑に読む。漢字がたくさんあるから発音も複雑にしないと理解できなかったからという風に通常理解できる。しかし、漢字がたくさんあるのは古代中国を構成する諸部族ごとに異なる漢字を作ったり、使っただけであり、諸部族ごとにとっては、通常の用途での漢字の種類は当初は多くなく、漢字の発音も複雑にする必要はなかった。単語自体、古代膠着語系中国語由来であるからだ。

そこに助詞や格変化を付加する上で漢字の発音の仕方が複雑化した。古代と現代の漢字の発音を比べると古代の方が複雑で何だこりゃになる。古代の漢字の発音は音韻学を基礎として解明されていっているが、その発音は漢字の基礎的な発音に助詞や格変化の発音も付加されているため、漢字の基礎的な発音の解明としてはずれている。

むしろ、中国の周辺民族の単語を漢字で模写した部分に漢字の発音の基礎部分があるように思える。古代の漢字の発音は膠着語の多くの言語同様に実際は簡単であり、助詞や格変化の情報を加えることで複雑化した。そして、複雑化した漢字の発音が定着してしまうが、中国語が孤立語として発展していく中で複雑になった発音は簡略化して、最後に現代中国語の発音に変化していったと思うわけである。

アイヌの部族

アイヌは主に5部族に分けられると言われている。17世紀のシャクシャインの乱の時代に主勢力として5部族いたから5つなんだろう。

でも、自分が思うに3つである。更に言うと2つか。

アイヌがいつ成立したのかってのはよく分からないようである。自分が思うに擦文文化からアイヌ文化への変遷は2つの要因からなされたと思う。

一つは平安時代と鎌倉時代ともに温暖な気候であったが、その合間に寒冷な時期があって飢饉に見舞われた。擦文文化はあまり一般的にはそうとは言われていないけど、温暖な気候を元に北海道各地に農耕文化を広めたことによって成立した。しかし、農耕に依存して人口を増やしたために、農耕が破綻して人口を維持できなくなると、縮小再生産というのが難しいように社会が崩壊して、おそらく、北海道から東北に逃げた。

続縄文時代から擦文文化に移るわけだけど、続縄文時代は人口がかなり少なかったが、東北の土師器文化の移民の流入で続縄文人も擦文文化人へど変化した。温暖な気候のために農耕が成立したため、人口が大幅に増え過ぎたのである。北海道というと鮭漁であるが、例えば、石狩川流域でほとんどなされるわけでもなく、漁猟も狩猟も補助的な生活手段になって、農耕に依存した生活になり、住居も変化する。その影響はオホーツク文化人のいた北海道東部や北部にも及ぶ。しかし、一時的な寒冷化による飢饉で全て崩壊して、北部と東部の漁猟、狩猟を基本とした部族だけしか残らなかった。

擦文時代の終焉の不可思議は遺跡が消えるとともに土器も消えることにあるようである。土器が消えるには鉄器などの金属器への変化が必要である。火を使うから。木器への変化だけでは説明が付かないわけで。自分は擦文文化人が消滅したとしか解釈しようがないように思える。

もう一つは擦文文化が東北との交易、つまり、奥州藤原氏との関係で成り立っていたが、奥州藤原氏が鎌倉幕府によって滅ぼされることにより、擦文文化人の活動も大きく制限されるようになった。交易による食料などが入手できなくなって、一層、社会の維持が困難になったのである。つまり、人口を縮小せざるを得ず、それはとても困難であるから前述と同様に社会が崩壊するわけで。

アイヌの前身は擦文文化人が北海道から去って行く中で北海道に留まる生活スタイルを続けていた、各地に点在するオホーツク文化人と樺太からアムール川流域に活動していて、後で北海道に入ってくる部族である。

まず、アイヌの5つの部族を挙げる。余市アイヌ、石狩アイヌ、シュムクル、メナシクル、内浦アイヌ。ただ、この分類は正確ではないと思う。

思うに2つの分類で分ける。

1)樺太、千島から北海道に点在していたオホーツク文化人。

2)南西部にいた1)と同族が東北から北海道南西部に和人が移民して定着することによって和人との交易収入により大規模に拡大した人々。

1)は排他的に孤立して暮らしていたり、アムール川流域の諸部族と交易していたりと少数ではあるが北海道やその周辺の各地に点在していた人々。唐子と分類される。擦文文化人の影響で擦文文化の住居などの生活様式を受容する。

2)は1)と同族が出発点であるが、アイヌが北海道で繁栄する基礎となった和人との交流の恩恵を和人との位置との近さから最初に受けた人々。シュムクルや日ノ本と分類される。2’)内浦アイヌとしてしばらく存在していたんだろうけど、和人地と近すぎるために和人がより遠くの部族と交易を拡大するに従い、その存在価値を失って、渡島半島から他へ流出して、渡島半島は和人地へと完全に組み込まれる。

その流れで2)は1)の領域を浸食しながら石狩川流域に移民し、勢力拡大し、3)石狩アイヌと変貌する。石狩アイヌは1)との混血を進めて、変質して行く。

また、2)は日高や夕張地方へと拡大し、この方面では東北からの和人の移民が渡島半島を超えて移り住み、混血していったこともあって、和人と関係の深い部族に変質していった。4)サルンクルと分類される。

1)は広い範囲内で分布していたが、樺太系を色濃く残し、日本海沿岸に分布する部族は1’)余市アイヌとなる。余市アイヌは石狩アイヌに浸食される一方、影響を及ぼす関係となる。この部族はアムール川流域へ覇権を求めるが元との戦いに負けて、一時、樺太からも掃討され、元との従属の上で、南樺太の権益を復権する。この部族は攻撃的である。

1)の一派の北海道東部から南東部の日高山脈南部沿岸までの部族は5)メナシクルと分類されるようになる。5)は和人地から遠いため、和人との交易の利権を他部族から奪う必要があるという厳しい状況の中、攻撃的で強い部族になる。

また、石狩アイヌが石狩川流域で拡大するとき、石狩川上流でメナシクルの影響を大きく受けた部族は6)ペニウンクルと分類される。

5)メナシクルは5a)道東の東南部メナシクルと十勝地域の5b)十勝アイヌに分類される。

まとめると、

1’)余市アイヌ
2’)内浦アイヌ
3)石狩アイヌ
4)サルンクル
5a)東南部メナシクル
5b)十勝アイヌ
6)ペニウンクル

で、5a)、5b)は1つとして、6)は無視して5つの部族であるが、元は1)唐子、2)日ノ本の2つである。日ノ本は2)よりもむしろ4)かもしれない。

言語的には、

4)は和人の影響を大きく受けて、その言語に和人の単語を多く含む。

4)ほどではないが、2)、3)も和人の単語をある程度、含む。

1’)、5a)、5b)はアイヌの祖先由来の単語を多く含む。

という感じになってるかと。文法的には抱合語から変化しなかった。

主流なアイヌの分類に述べたが、名も知れぬ少数部族が多数いて、消えて、吸収されて、残ってと変遷していったんだろうけど、詳しくは不明。

江戸時代以前の北海道の人口は極めて少なく、数千人や千人を切る状況だったと思われる。アイヌは一番発展した江戸時代でも、2万人ちょっとである。隣接する青森県はずっと面積は少ないが北海道の何倍もの人口を常に抱えている。そういう世界の少数民族、いや、少数部族の連合体の世界であり、気候の変動に伴って、人が消えたり、増えたりをした地域。その変遷をきちんと読むのは何とも難しい。

以上、直感と妄想から決めつけた内容なんでどのぐらい正しいかは知らん。

史記読んでる

最近、史記読んでる。断片的にはいろいろ読んではいるが、一気読みはしたことないんで。諸子百家の他書の知識がないといろいろ難しい感じではある。

秦始皇本紀読んだけど、なぜ始皇帝は中国を統一できて、なぜ3代で滅んだのかってのを考えてみた。

始皇帝は父の代からの趙への人質から始まるわけだが、とにかく、始皇帝は天下統一に対して何もやっていない。秦の優秀な歴代の王や重臣、将軍の手によって統一の事業がなされて、たまたまタイミング良く皇帝になったに過ぎない。その後は、傲岸不遜の姿勢で皇帝を演じ、死を恐がりながら、都の外で死ぬ。

春秋戦国時代を考えると多数の民族がいて、多数の王家があって、お互い縁戚関係だったり、時の国の強弱によって離合集散しながら、同じ事の繰り返しを続ける状態だった。この状況を簡単に言うと、多くの利害関係者が細かく存在していた。法家を採用した秦が統一できたのは利害関係者を厳格な法の適用によって整理したからである。細かい地権者がいるところを手段は法家の方法論に則りながら、人を殺しまくって大地主へと集約させた。

今までだと強い国が弱い国を併呑したところで、お互い縁戚関係だったり、人質の交換し合っていたりで、城を貰ったり、譲ったりするぐらいで事を収めたり、なあなあで解決するので、時間が経つと元に戻ってしまう。しかし、秦は利害の人的整理をしたために可逆ではなくなったのである。

政が始皇帝になった頃はバランス良く整理されたわけだが、言わば、秦はリストラが国是の国でしかなかったために、更なるリストラで国が破綻した。二代目を選ぶ際に始皇帝の遺言とは違う子を次の皇帝に選び、その際に大量に人を殺して整理した。今までは整理することで秩序が構築されてきたが、必要以上の整理で逆に無秩序が生まれた。

必要以上の整理で空いたけど、残った人で背負えなくなった利権に余所者が群がって、無秩序を生んだわけである。一般に秦の崩壊の原因になった反乱の多発は厳格な法の適用に従えなくなった人々が蜂起して生じたとされているけど、空いた利権を奪っただけである。

始皇帝は周旋せずに、二代目への引き継ぎや国の基礎固めのための方針変更をすべきだったね。その能力はなかったし、諸大臣も同様になかったというよりは秦の制度からの逸脱がそのまま死に直結しているだけにできなかったとも言える。

秦は厳格な法適用という名の下の利権に対する人的整理によって天下統一を行う一方、滅亡もしたと結論づけられる。

ま、大学のレポートなり論文なりのレベルなら、最低、史記とか諸子のどっかからの引用とかしながら、論理展開しないと駄目だけど、自分は専門家でも何でもないからそういう面倒なことは別にいいやってところで。

 

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