新羅が朝鮮半島南部を統一したわけ

古代朝鮮半島は高句麗、百済、新羅と3国に分かれてお互い争っていたけど、最後は新羅に統一された。と言っても、新羅が統一したのは渤海の南方地域の半分なわけだけど。その統一できた理由を述べてみる。

1)高句麗が隋による攻撃を受けて弱体化していた

2)高句麗が弱体化しているので新羅は漢江流域を確保していて国力はそこそこ強かった

3)百済を支援する九州倭国が畿内政権に征服されていて弱体化していた

4)3)の一方で畿内政権が政変で混乱していて九州倭国が独立はして、畿内政権は半島情勢に介入できず、九州倭国の百済への支援も弱かった

5)新羅も内乱が起きていたけど、それを口実に唐が新羅は与し易しと新羅に対して比較的友好的な対応をしていた

6)高句麗と百済の連合で新羅攻めが始まる最中ではあったが、唐の介入によりそれが中断された

7)百済と高句麗が唐によって滅ぼされた後、唐の朝鮮半島経営が固まる前に唐本国に周辺異民族からの攻撃があって、唐が朝鮮半島を放棄した

8)新羅の国政に対し唐による強い介入があって、新羅の制度変更が強制される事態になっていて、新羅の保守的で柔軟性に欠く旧制度に対して新羅の政権がフリーハンドで行動できる状況だった

9)新羅の王権が強権的ではなかったために、新羅が半島南部を統一する際に各地方の反発が弱かった

10)唐による半島内の倭人、高句麗人の排除が行われ、更に唐に対する新羅の反乱の際に新羅による唐人や高句麗人や百済人の虐殺(被支配層ではなくて支配層に対する)がスムーズに行えた

という感じで多くの偶然が重なったんだよね。その後、高句麗遺民による渤海の建国により中国との陸路の接続が遮断されて、中国政権の介入がなくなった。強権的な唐や高句麗の排除によって朝鮮半島住人にとっては比較的平和の状況を作ることができた。新羅は統一後、唐の律令制の導入が進んだけど、あまり普遍的な制度の構築までには至らず、緩やかな地方支配、及び、中央偏重主義により、比較的平和な時代を経た後、反乱が起きると新羅政権は対応できず、最後は高麗に投降して滅ぶわけだ。

三国時代と統一新羅時代を比べるとやはり三国時代の方が戦争が激しかったものの活気があって発展していたと思う。そして、新羅統一以後は緩やかに衰退していったと言える。

統一新羅後期は実は朝鮮特有の腐敗した社会構造ができはじめていて、だからこそ新羅は滅んだのだけど、その辺も結局は偶然のような気がする。必然ではなく、新羅がもう少し長期的に安定したというか文化的に発展した国家を形成することも可能ではなかったんかと思うんだよね。

後、朝鮮半島ってよく言われている程度の人口が全くなくて、三国時代にしても領土が点と線による支配に過ぎず、半島全体の地域としては貧弱なために、よく想定されるような連続的な発展がなされていないような気もするんだな。その辺を補うために朝鮮人やら朝鮮人に阿る学者は朝鮮半島を過大評価して民族主義を煽ったりしてる。

縄文人の社会的特性

日本は旧石器時代、縄文時代、弥生時代と時代が変遷した。考古学では旧石器時代から縄文時代に発展により進化したと考えられているけど、実際は違うんだと思う。旧石器時代の日本の住民はフェードアウトして新たに日本にやってきた縄文人によって縄文時代が始まった。

縄文人は元々、氷河期に陸上だった東シナ海大陸棚の陸地の草原に海洋民として生活していて陸地の水没とともに九州から日本に渡って、日本に渡れなかった多くは全滅した。

日本列島は火山活動による火災が多く、それによって縄文人は土器を開発した。縄文人は世界に先駆けて土器時代、つまり、新石器時代に入ったのである。1.5万年前のこと。

縄文人は集団への帰属意識が強く、日本に縄文人の集団はたくさんあったろうけど、何らかの集団に属することが日本で生き残る必要十分条件だった。ただ、集団に属しない者は奴隷として扱われた。奴隷と言っても、何らかの集団に属せば奴隷ではなくなり、平等な集団の一員となることができた。別な視点で言うと、集団に属しない移動する民は奴隷ではあるが、自分が属するべき集団を見つけに旅をした。

このような集団に属せば平等な民、属しないと奴隷という社会認識は縄文人に強い社会への帰属意識を植え付けた。その意識は古代から中世、近代、現代へと受け継がれていると言える。

外の世界から移民がやってくると縄文人は彼らを奴隷として扱い、集団への帰属を求めた。奴隷は集団への帰属の旅を強制されるので短い期間を経て、必ず、集団に属して、属せば集団の一員として平等に扱われ、そして、移民という単独の人々という存在はすぐ消滅した。

更に集団に新しく加わった移民は集団の文化にすぐ溶け込むように組み込まれた。例えば、数人の構成からなる移民の家族がいて、集団に加わると、家族はばらばらにされて、家族として存在することができず、集団の中の小さな集団に各自分けられ、そして、集団の一員として文化、つまり、言葉や風習を覚えて、移民という属性は消滅した。

縄文時代は航行技術がまだ未熟で丸木舟のような非構造船が使われた。このような船では海流の早い場所を渡り切ることが困難で朝鮮半島南部から対馬を経由して九州や台湾から沖縄諸島を経て九州南部に渡ることが不可能だった。ただ、海流に任せた航行による長江河口沖から九州、朝鮮半島東部から山陰、北陸への渡航は可能だった。そのため、海を渡るのに一度に少数しか渡れず、渡ってくるのは長江河口や沿岸部の台風などによる洪水による被災民が主で着の身着のままでやってくるために、日本の縄文人に保護されることが必須でもあった。

縄文人の強い集団帰属強制制度は弥生時代にもある程度、継続されるが、航海技術が発達した時代になると移民がより大きな人数として同時に日本に入ってくるために日本側の社会が移民を吸収できる越えてしまい、帰属強制制度が機能しなくなり、終焉した。

このような縄文人の集団帰属の特性によって、日本は外部から次々移民がやってくる状況であっても、均一な縄文文化を日本全体として維持することができた。それが縄文時代、つまり、1万年以上続いたわけである。

シベリアやアメリカ大陸では言語や文化を異にする少数部族がたくさんいる状況であり、学者も当然、古代の日本は言語も文化も異にする縄文人の多数の部族がいたと考えているようである。しかし、縄文人が1万年という長い期間が続いたのと、縄文人が比較的開放的に活動していて、日本国内やその外にも交易などで交流していたがゆえに、縄文人は極めて均一な言語、風習を共有する民族になったのである。

縄文人の文化の均一性が壊れるのは水稲が全国的に広まり、人口が大幅に増えて、各地方で大きな社会が形成される古墳時代からである。その時代、渡来人も多くやってきたために、文化的な差異も多く生じるようになった。

縄文人の社会的特性って実はこんな感じだと思うんだよね。そして、実際そうなんだけど、それを想定していない古代日本の専門家は間違った古代像へと歴史を導く。

日本人の特性は、それは村であり、国でありという社会への強い帰属意識である。社会の一員であるために各々、規律を持ち、協調して生活するというのを縄文時代から行っているわけである。一方で外国では強い王権に従ったり、神という超越的な存在との対比で個人を考えたりと、社会意識が薄い。そのため、厳格な法制度なり、宗教的な秩序がないと社会が機能しない。日本人は社会への帰属が一種の宗教的な規範であり、それは決められたルールというよりも、実社会で生活する上で必要な協調を地肌で感じ取って自らするものであり、だからこそ、各人は賢く行動することを求められたために、日本人は別段、教育をされるわけでもなく、集団の一員としての知性を獲得するのである。

ブラックホール論

自分は専門家じゃないけど、ブラックホールに関して間違った概念が広まってる気がする。ここで正しい概念を説明しようと思う。ただ、自分が間違ってるかもしれんなぁ。専門家じゃないからなぁ。

○相対論

一般相対論の方程式って微分方程式である。積分方程式ではない。微分方程式だから微小空間でしか完全には成り立たない。積分可能であればある広い領域でも微分方程式の解が存在する。

一般的な自然現象ではかなり広い空間で積分可能であり、マクロなイメージの解、つまり、現象を記述できる。でも、ブラックホールという極限の世界だとマクロなイメージの解が存在しなくなり、空間のある一部でしか解が存在しなくなるわけで。

一般相対論だけでなく、他の物理法則でも、大体、微分方程式で記述されるので同じようなことが起きる。一般相対論の根源的な要請では、全ての物理法則は微分方程式で記述され、微小空間でしか、完全な解を持たないと言える。

でも、世界は空間的な広がりを持ったところだから、空間的な広がりを持った解が必ず存在するはずだと普通は思うわけである。しかし、高質量を持ったブラックホールだけでなく、普通の素粒子も極限的な存在なために本当は積分可能ではないのだ。

そうしたら、全てがマクロ的な解を持たないということになってしまうが、そこを辻褄合わせするのが、実は一般相対論なのである。簡単に言うと、時間が遅くなって、積分ができないということは解が発散するということでもあるけど、それを遮蔽する。時間的な隔絶が発散を隠すのである。普通、この発散を量子論などでは繰り込み理論で回避してる。

繰り込み理論と一般相対論による完全的な記述は一致するんだろうと思うんだけど、自分は実際、式を扱ったことがないのでまだ分からない。

ここでは簡単に、一般相対論では必ずしもマクロ的な世界で積分できるわけではないと考えておけばいい。

○ブラックホールの実像

ブラックホールというと中心に質量が集中する特異点があり、シュワルツシルト半径で表される表面があるという感じであろう。

ただ、中心に特異点があるというのは間違いである。

ブラックホールを単純に言えば、シュワルツシルト半径で表される球面が存在して、その中は不明で、外側はマクロ的な解を持てるということ。とにかく、球面の中はどうなっているのか分からない。外側は何とか計算できて、何が起きているかというのが分かる。

もう少し厳密に言うと、質量から決められる半径の球面があって、球面の外側の空間では一般相対論の方程式は積分できて、マクロ的な世界を描写できる。ここでは単純に、ブラックホールの角運動量や電荷は無視する。

では、ブラックホールの中はどうなってるの?って疑問が出てくるだろうけど、とにかく、外からじゃ分からない。質量(と角運動量と電荷)で決まる特殊な球面があって、それが外側から見たブラックホールの情報の全てで、球面の外側ではその情報で全ては記述できて、ブラックホールの中身の様相とかは無関係である。

このブラックホールが大きな天体だとすると、「中心に特異点がある」という思い込みを置いておけば、でこぼこがあって、質量分布があって、構成物質があってといろいろ情報があるはずであるけど、そういう情報はブラックホールの球面の外側では全く意味をなくしているということであるわけだ。

ブラックホールが外側からは質量、角運動量、電荷以外の情報を失うってことはとても重要で素粒子がその内部の特殊な情報が失われて、質量と諸量子数しか外部に影響を与えなくなるのと同じことである。素粒子については、量子数が表す固有状態になって、それが、特定の質量になるということなんだと思う。

もう少し言うと、外部から見るとブラックホールは表面が時間停止していて、更に内部は全く分からない状態っていうのは、ブラックホールは表面とその外側が作る場がブラックホールの全てであると言ってもよい。内部から表面を越えて外側に力など影響を及ぼしているということはない。ブラックホールが作られた時点で外部から見えるブラックホールの全ては表面とその外部の場で帰着されるわけだ。そして、一般相対論的にはこれは空間がねじ曲がったことによる幾何学的なトリックなのである。

言い方を変えるとブラックホールは宇宙の境界である。内部はもう宇宙の外側でしかなく、外部から見る限りはアクセスする方法がない。

○ブラックホールの内部は?

ブラックホールの内部はどうなってるの?ではあるが、端的に言えば、ブラックホールへ落ちないと分からない。一般相対論では球面の外部は解を求められるけど、内部については内部に落ちる質点の運動としてしか解を求めることができない。

ここが一般相対論が微分方程式である肝でブラックホールの内部については微小空間でしか解が存在しなくなるのである。正しくは微小点ではなく微小球面ではあるが。

そして、ブラックホール内部に至って、中心に向かって落ちていくわけだけど、落ち方は中心にそのまま落ちたり、角運動量を持って落ちたりといろいろあるけど、落ち方によってもブラックホールの内部は変化してしまう。というよりは、落ちることによってブラックホールの内部が初めて分かるのである。

また、ブラックホールの特殊なところはブラックホールに落ちるときの微小球面が宇宙の全てになり、実際、ブラックホールに落ちる微小球面が全宇宙の質量を持ったりしたりと不思議な状況が起きる。ブラックホールに落ちる前は、ブラックホールと自分の関係でしかないが、ブラックホールに落ちた後は宇宙と自分の関係になってしまう。この辺が一般相対論の微分方程式が描く完全性なのである。

つまり、ブラックホールに落ちるということは思ったより重大なことなんである。それをこれから説明しないといけない。後で書くと思うけど、ちなみにブラックホールに落ちるということはとても悲劇的なことなので、宇宙時代になって宇宙船で方々に飛び回れるようになってもブラックホールにだけは落ちてはいけない。

○ブラックホールの球面への衝突

そのうち書く。

古代朝鮮と川

古代の朝鮮半島の各勢力は川をベースに分布してたようだ。

鴨緑江上流の山岳地帯に丸都城があって高句麗があった。高句麗は山岳民なので堅固な城を築いて、山岳の移動に馬を用いて、周辺の同族の夫余の部族らを支配していた。

中国の各王朝は大同江流域に楽浪郡を設置し、そこを拠点に半島を広域支配した。

更に漢江流域の馬韓の地に帯方郡も設置して、より南部地域の支配を深めた。漢江を上流に行くと洛東江流域の弁辰地域に到達するので都合が良かった。

洛東江流域は倭人が古くからいた地域で鉄を産出して帯方郡に供給したり、倭国に輸送したりした。洛東江は倭系の頭に被り物をする人々の地域だったので弁辰と呼ばれた。洛東江の権益を狙って、山陰倭種の人々が半島東岸に斯盧国を作り、後の新羅となった。

錦江流域も倭系の人々の地域である。中国からは馬韓の辺境と認識されて、魏志韓伝の馬韓の項目に漢江流域と錦江流域の違いが書かれている。また、百済が漢城を失ったとき、錦江流域に逃げ、倭系の人々の支援を受けて熊津を都として再起した。

ちなみに金属器について言うと、銅器は高句麗の地域に先に伝わったが、鉄器は錦江流域の倭系の地域に先に伝わった。中国人が高句麗を警戒して鉄器を伝えなかったのだろう。南の倭系の人々は温厚なので交易を結ぶべき相手だと認識して鉄器をもたらしたわけで。

錦江流域 には興味深い古代の遺跡があり、日本との関係が深いが、倭系の人々の地域なので当然である。

朝鮮三国時代の高句麗、百済、新羅は主に拠点の都を中心として各地を支配した。点と線の支配である。なので、よく三国時代の各勢力の領土を三分割してある図を見るけど、あのような面の支配は行えていないので、その図を見て各勢力の強弱を論じても意味ない。拠点から各国がどのような視野で領土の拡張や権益の奪取を狙っていたかを考えないといけないわけで。

倭人というと海洋民で全身に刺青をしていると認識されているけど、倭人がみな刺青をしているわけではない。倭人と言っても山陰畿内の倭種の人々は刺青をしていないし、朝鮮半島南部の倭系の人々も刺青をしなかった。倭国を担う九州の倭人が刺青をしていただけである。

古代朝鮮三国時代

ここでは高句麗、百済、新羅の成立の経緯について述べる。

古代の朝鮮半島北部には夫余系の部族が多数住んでいたが、住む場所によって生活形態が多様であった。松花江上流に農耕民、蓋馬高原など山岳地域にいる山岳民などなど。

そして、山岳民の王が高句麗王となって、夫余系の各部族、松花江上流の農耕民の夫余、半島北東部の沿岸民の沃沮、中北部の濊貊を支配した。おそらく、高句麗王が朝鮮半島の本来の王なのであろうと思う。

高句麗王は魏や晋から攻撃を受けて遠方に逃亡したが、晋の混乱時代に戻って来て、高句麗を再建した。鴨緑江流域から南下して、大同江流域の楽浪郡を落とし、漢江流域の帯方郡も支配下に納めた。

しかし、帯方郡の馬韓地域の人々は高句麗王の専制を快く思わず、高句麗の王族を担いで漢城(帯方郡治)で独立した。これが百済である。百済は辰王の権限を用いて、漢江上流の秦韓の支配する一方、前燕の攻撃を受けて弱体化した高句麗を攻めて、高句麗王を戦死させるなど一時期隆盛した。

ただ、前燕後燕が滅亡して国力が回復した高句麗の反撃を受けるようになると百済は防戦一方になり、南の倭国の援軍を求めるなどしたが、遂に漢城を放棄して倭人の地域の錦江に逃げ込んだ。錦江流域で再建した百済は倭人の影響を大きく受けて、倭国の属国になり、文化的にも倭系に変化した。

一方で山陰と交流があった半島南東部端で倭種の人々が斯盧国を建国し、九州倭国の支配域であった弁韓を蚕食していき、中国の帯方郡との交易を求めて漢江上流の秦韓へ進出した。そして、斯盧国が新羅となるのである。新羅は弁韓の倭国と対立し、何度も戦いになることがあった。また、秦韓へ進出したため、秦韓を支配する百済とも対立した。そして、百済と新羅の長年の戦争が始まるのである。

百済が高句麗の攻撃を受けて漢城を放棄して南方へ逃げると、秦韓は新羅の思うままになるところであったが、高句麗の南下で高句麗の支配が秦韓にも及ぶようになると、強権的な高句麗の支配を嫌って秦韓の人々が秦韓を捨てて南方に逃げようとする。百済の伝手で倭国に逃げようとするが、新羅は秦韓の支配を望んでいたので、秦韓の人々の逃亡を邪魔したが、最終的には秦韓の人々は倭国の助けで九州まで逃げ込んだ。

という感じで朝鮮半島三国時代は推移するわけである。

という感じで倭国下の百済と山陰畿内下の新羅という構図が生まれたのである。

百済は高句麗から独立して高句麗を攻撃したが反撃を受け拠点の漢城を落とされ、倭人の多い錦江流域に逃げて、倭国に強く依存し、倭化していった。

新羅は山陰畿内の倭種の人々が弁辰の鉄や中国の帯方郡との交易を求めて、 斯盧国 を建国し、弁辰地域を蚕食する一方、漢江上流の秦韓地域に勢力を伸ばし、百済と対立するようになった。新羅は倭国領の弁辰地域に対して攻撃的であったが、倭国は高句麗を主要な敵として相手をしている関係上、あまり新羅対策を行えず、偶に新羅の本拠に船団で攻撃するぐらいであった。

九州倭国は磐井の乱と呼ばれる畿内勢力の攻撃を受けて敗北し、畿内勢力の支配下に入ると、半島情勢に関与できなくなり、百済が倭国から独立し、新羅は弁辰地域を大きく占領していく流れになる。また、倭国に代わって畿内の将軍である近江毛野が任那に赴任すると、百済や新羅に対して威圧的な対応をして信頼を失い、百済や新羅は一層、日本の勢力から離脱していくわけである。

畿内勢力内で政変が起こり、融和的な蘇我氏の政権が生まれると、百済と親和的になり、百済も対高句麗のための援助を貰う意味で、中国の書物を積極的に貢いで、日本では大きな文化的発展が沸き起こった。しかし、一方で日本は関心が内的に向かう一方、外的な関心を失い、半島情勢への関与が薄くなっていくわけである。そんな中、新羅との関与が深い勢力が再び政変を起こしと日本国内の政治的な情勢は百済、新羅と半島との関係が重要な要素になっていくわけである。

古代朝鮮の韓について

韓はxan(カンとハンの中間)であり漢とかにも通じる古代北方系部族における王を意味する言葉と思われる。

朝鮮半島南部が何故に韓と呼ばれるようになったかを述べる。

中国視点だと朝鮮(楽浪)から見て、漢江流域は真番と呼ばれたが、それが韓に置き換わった。北方系の夫余系の部族が元は支配していたからだろう。ただ、朝鮮南端部の錦江~洛東江流域は倭系の地域であるので、元々は韓はそこを含む物ではなかったと思う。

しかし、韓は漠然と朝鮮半島南部を指すようになる一方、分割されるようになる。楽浪郡から見て、南を馬韓とした。南の方角は午であるのでそこから同じ意味の馬を持ってきたのであろう。また、濊貊はよく勘違いされているがワイハクではなくワイマクもしくはワイバクである。貊(マク)と馬韓が発音的に近くなるのもあって、馬という字を取ったのである。

更に南東、つまり、辰の方角を辰韓とした。ただ、韓はあくまで漢江流域なので、馬韓は漢江下流、辰韓は漢江上流を意味した。辰韓は遼東からの移民の秦人が住み着いたので、秦韓とも呼ばれる。秦人は彼らに土地を分け与えた馬韓の一国の王を辰王と呼んで従属した。

秦人は住んだ秦韓は漢江上流に限定されるかと思われるが、辰韓は漠然と楽浪郡から見て朝鮮半島東南部を指すようになったかと。

倭人が住む半島南端部の錦江~洛東江流域は中国視点だとあまり認識されておらず、錦江流域は馬韓の中の辺境と見なされ、洛東江流域は倭人の活動が活発で中国人とよく交流したのと、頭の被り物をよく身につけていたのもあって、弁(かんむり)+辰(南東)として弁辰と呼ばれるようになったのであろう。

錦江以南の半島南西端部は特段地域名が設定されることはなかったけれど最終的には慕韓と呼ばれたようである。

ここで、馬韓、弁韓、辰韓と3つの地域が確立したが、それぞれ多数の国(都市)に分立するだけで、王権は存在しなかった。

弁韓と辰韓の区別は曖昧で混乱があるかと思う。辰韓は馬韓の東の朝鮮半島南部の領域を漠然と示していて、弁韓を含む意味でも用いたりする。しかし、漢江上流の秦人が住む秦韓を辰韓と呼んだり、洛東江流域は弁韓なのであるが、弁韓は九州の倭国に従属する領域であった一方、山陰の倭種の人々が建てた半島南東端部の沿岸部の斯蘆国が主体となって、倭国属の弁韓に対抗して、漢江上流に掛けて支配域を伸ばしていくのだが、その 斯蘆国 主体の勢力を辰韓と呼んで、後に新羅になるのだが、そういう意味での辰韓を使ったりとなかなか意味が推移するのである。

アイヌとバイキング

ヴィンラントサーガというアニメがあり、バイキングの実態をよく表しているようであるが、まさにアイヌも元々はバイキングのような海賊だったのではなかろうか。

アニメでのバイキングは各地を略奪しに方々へ航海する。略奪された村々は焼かれ、皆殺しにされ消える。北方の地域は食料などに乏しいため、海賊に襲われて物資を奪われると生きていけない。生殺しは可哀想というわけなのか、殺されるわけだ。

一方で日本近海の海賊というと交易を担って、地域の保安や円滑な海上交通を保証するために貢ぎ物を頂く形であるのだが、北方はそうも行かなかったようである。

アイヌの実態が実はバイキングであったから、北海道の擦文人は滅ぶしかなかった。ただ、アイヌには奴隷制があるために擦文人が全く虐殺されるだけというわけでなく奴隷にされて生かされた面もあったかもしれない。しかし、北方地域のために食い扶持が少なく、奴隷の運命は死ぬしかなかったんだろう。

また、アイヌに縄文系の遺伝子が強く含まれる一方、擦文文化など縄文系の文化を全く継承してないということは、襲われた擦文人のうち子供だけが生かされて、アイヌに組み込まれたということは想像に難くない。

アイヌの文化を語るときの多くの考古学者やアイヌ学者の陥る問題点は北海道や東北はアイヌの地域だからそこの古代の遺跡もアイヌのものだと考えることにある。そして、日本の古い文化も同時にアイヌ由来だと考える。簡単に言うと古代日本をアイヌ由来と捉える、アイヌ原理主義である。

アイヌが北海道を荒らすバイキングでしかないのは、アイヌ時代以前の北海道の擦文文化、オホーツク文化、トピニタイ文化との連続性がないことから分かる。アイヌ文化は擦文文化と断絶してるだけでなく、オホーツク系の文化とも断絶している。ただ、アイヌ原理主義者は連続性があるはずだという前提に立って、擦文文化もオホーツク文化もトピニタイ文化もアイヌの前身の文化という仮定を当然のように設定してしまうので、アイヌ文化の歴史をきちんと把握できなくなっている。

更には、北海道の擦文文化、オホーツク文化、トピニタイ文化の担い手がアイヌのバイキング行為によって滅んでしまったことに対し、それらをアイヌのものだと主張したり、それ前提で歴史を語ったりするのは、悲惨にも滅ぼされた人々に対する冒涜でもあろうと思うわけだな。

朝鮮人の祖地

朝鮮人自体が朝鮮半島にいる複数の民族の複数の人種、及び、文化が混合して生まれたものであるので、朝鮮半島に祖地を設定してもいいとは思われるが、朝鮮語の基本となる言語は朝鮮半島では発生したわけでも古代における主要言語でもなかったので、朝鮮人の源泉となる祖地を探ることは重要である。

中国の古代の文献を紐解くと、朝鮮半島は中国の辺境地、蓋国、倭という3つに分解される。中国の辺境地とは楽浪郡(朝鮮)、そして、漢江流域の真番である。蓋国というのは蓋馬高原とその周辺の夫余、つまり、高句麗人の領域である。そして、倭は西は錦江から東は洛東江の流域の古代において倭人が多かった地域である。

すると朝鮮人の祖地はどこか?疑問が起こるわけである。古代には朝鮮半島には朝鮮人が見当たらない。

古代において、中国系の人々、満州人の祖先である夫余とその系統の人々、南部の倭系の人々以外の民族となると挹婁ということになる。夫余と挹婁は言語が違うとあるので、夫余が満州語の祖語を話していたとすれば、朝鮮語は挹婁語しかない。

ただ、挹婁というのは沿海州南部の民族であろうが、単一の民族を指していなかったと思われ、挹婁は時代によって粛慎やら靺鞨などいろいろ呼称が存在し、ただ一つの民族ではなく、挹婁と朝鮮人が完全に一致するわけではなく、挹婁と呼ばれた人々に朝鮮人がいたということを表す。

アリランの歌を考えると朝鮮人は白頭山を越えて北から南にやってきたと推測されるが、中国の朝鮮族は白頭山の北東の延辺朝鮮族自治州に多いのでここが祖地である可能性が高いと思うのである。

中国の朝鮮族について断っておかないといけないのが、元々、中国に朝鮮族が多くいたわけではなく、いくつかの時代において移民して増えたものであるということだ。ただ、朝鮮半島の朝鮮人が中国領の延辺に何の理由もなく好んで住み着いたというわけでなさそうで、何らかの理由があって延辺に移民したのであろう。それは延辺が朝鮮民族の祖地だったからではないのか。また、朝鮮人の移民は古くは戦争の捕虜として移り住んだとされているけれども、延辺が選ばれたのは元々朝鮮人が多く住んでいて、朝鮮人捕虜を住まわせるのに、朝鮮人が元々住んでいたところを選んだのではなかろうか。

朝鮮人視点だと中国の朝鮮族は朝鮮人の移民なのであろうが、実は朝鮮人の祖地であったために、自然と朝鮮人の移民先として延辺が選ばれて、そこに移民が集中したということかと思う。

というわけで、朝鮮人の祖先の地は白頭山の北東の中国の延辺の可能性が高いと思うのである。

古代のアジアの人類発展モデル

現在、主流の考え方としては中央アジアに人類が移動してそこから南下して各地に拡がったと言われてる。これは中央アジアの遺物の推移やらマンモスなどの大型動物の移動に合わせて人類も移動したとかそういう理由かららしい。

しかし、氷河期の中央アジアは寒冷な乾燥地帯で人が住みやすいところではない。何故にそういう過酷な環境の場所に人類が集中しないといけなかったのかという根拠がないわけで。

一番、最も分かりやすい考え方としてインド南岸などアジア南部の海岸地帯の氷河期の温暖湿潤な地域に人類は固まっていて、氷河期が終わるとともに北上して生活域を拡大させたとした方が分かりやすい。実際、南から北に拡がった方がYハプロで示されるアジアでの人類の分岐モデルを説明しやすい。

そこでアジアの人類発展モデルをここに提唱するわけである。モデルであるから、いくつかの基本ルールが存在する。

1)氷河期の寒冷期は南に人口が集中。

2)人類は西から東に移動。東の部族は西の部族に駆逐される。

3)アジア南部は温暖湿潤だが、湖沼河川で土地が分断されていて移動に時間が掛かり、また、定住していくので移動がとても遅い。

4)今回の発展モデルの時代では船の移動を考慮しない。船は少数しか移動できない。

5)アジア西部は技術的に先進地域であり、そこから技術が東へ伝わる。

6)北方の中央アジアは寒冷乾燥地帯であり、定住しにくいのと、土地を分断する要素が少ないために移動が高速になる。

7)北方の中央アジアの経路は技術を伝播させる交易路として機能した。

8)氷河期が終わり、温暖化が進むと人類は南から北に移動した。

9)地域が発展するには技術を伝える交易路と人類の移動が交差する必要があり、その交差地点で文明が開花した。

図で示すと以下である。

考古学では中央アジアの石器の推移に重点を置き、人類の拡散が中央アジアを経由することを仮定していたが、実は中央アジアは交易路でしかなかったんではないかと思うわけである。寒冷であり乾燥地帯でもあるので人が安定して生活できる場所ではない。マンモスの群れを追って、マンモスを狩って生活したと言われてるけれど、狩猟で生存できるのは極一部の部族集団でしかない。

人類は中東から中国大陸に向かって西から東へ進んでいったわけだけど、考古学では人の移動=技術の移動という仮定があった。遺跡の遺物を見て技術がどう伝播しているかを人の移動と同一視したわけである。

でも、実は人類の移動はとても遅い一方、西の部族と東の部族の交流も薄いため、南アジアでは技術の伝播があまり行われなかった。

また、西の部族は中東の先進地域から出た時期が遅いために東の部族と比較すると明らかに文化的な進展度が高く、西の部族の移動により東の部族は簡単に駆逐された。東の部族が生き残るためにはより東へ逃れるしかなかった。

人の移動と技術の移動が一致していないため、人類の発展にはそれぞれの衝突が必要になる。

例えば、中央アジアの交易路からの技術と黄河流域のYハプロO2の民の移動が衝突したことにより黄河上流で金属器の文化が発達し、秦による統一が行われることになったわけで。

日本でも縄文時代、東北で文化が発達したのは中央アジアの交易路の終端であるアムール川流域と交流を持てたのが東北だったからに他ならない。ただ、縄文時代は西日本より東日本が発展していたかというとそうではなく、遺跡として残りやすい文化を東日本、東北の縄文時代の集落が形作っていただけである。

天皇家の初期の歴史

令和天皇即位したね。というわけで、天皇家の歴史について紐解いてみようと思う。

初期の天皇で重要な人物を挙げてみる。

1)神武
21)雄略
26)継体
38)天智

神武は東征で有名な初代大王、雄略は大和王権を確立した大王、継体は大和王権を刷新した大王であり、天智で天皇家を確立し、これらの家系が大王ではなく天皇と呼ばれるようになる体制を作った。

実は神武と雄略は同一人物で九州倭国の倭の五王と呼ばれる王の最後の武であり、継体は大和王権からその武の影響を排除、つまり、九州を排除して畿内独自の政権に作り替えて、最後には九州を征伐して日本の統一を果たしたのである。その後、政変を繰り返して、天智のときに安定した天皇を頂点とする国を作った。

最初に一つ断っておかないといけないのは神武や雄略は五王の武と同一であるものの、天皇家の人物として組み込まれてはいるが、武は大和王権での大王にはなっていない。

また、初代の神武は皇紀元年の紀元前660年の人とされているが、詳細は省くけど、古代は1年を春秋で分けて2年と数えていた。これを半年暦と言うが、それを元に計算すると皇紀元年は西暦100年ぐらいを示している。倭の五王の武は中国の歴史書によると西暦500年ぐらいなので、武は初代神武であるから、皇紀元年が天皇家創始の年であるのもまた虚構である。

まとめると、

A)1:神武~21:雄略~25:武烈の時代→九州の影響力の元、畿内で王権が成立した。
B)26:継体~37:斉明の時代→畿内独自の王権になって九州王権を属国化して日本統一をなした。
C)38:天智~の時代→万世一系の天皇体制が始まった。

と区分できる。

次に前提となる話を述べる。

古代の日本は、各地域が地形的に山川湖沼で隔てられている一方、自然環境的に温和で豊かなことにより各地の地力が高く独立性が強く、軍事的な力による統合が困難な状況にあった。そのため、地方分権的に各地で勢力が割拠して、交易などで経済的には大域的には繋がっていたが、政治的には分立していた。

日本人は賢く平和的で、先進的な技術への欲求は強い一方、技術は共有して、お互い繁栄を享受し合い、そして、戦争を行うなどして身分差を作ったり支配の構造を作ることはしなかった。

しかし、中国の知識が頻繁に入ってくる九州では、各地で戦争が頻発し、王権が成立し、そして、周辺他地域への戦争も積極的に行った。ただ、九州は倭国として統一後、日本国内の東国への拡張は前述による困難さもあって行わず、また、文化的技術的先進地域の中国へ近くなる方向を望んで、朝鮮半島へ進出した。更に付け加えると、朝鮮半島南部は九州の住民である倭人が元々多く住み着いていた地域であったので、倭人の住民を足掛かりに半島への拡大を行った。

九州が半島への拡大を最も積極的行ったのは、九州がようやく統一された後の、倭の五王の時代になってからである。この時代は中国が戦乱に呑まれて、半島が中国の政治的な影響から離脱した空白地の状態であり、倭国は北の高句麗と半島の支配権を巡って争った。半島南部の百済、新羅といった国は倭国の勢力圏内にあったが、徐々に百済、新羅が倭国から独立して行動する傾向が強くなり、倭国の半島での勢力圏が狭まっていく流れになった。

一方で九州以東の中国、四国、畿内、中部、関東などは各地では独立した勢力が割拠してはいるものの、あまり戦争は起こらず、平和的に諸地域が関係する時代が長く続き、その経済的な余裕な状況から多数の古墳が各地で独立に作られる状況にあった。ただ、古墳造成技術者や労働者は各地を移動しながら古墳を作る環境にあった。

倭の五王の最後の武は半島での覇権争いで閉塞的な状況に陥り、東国へ支援を求めて周遊することになる。武は各地で歓迎を受け、一方で、各地でいろいろな活躍を行い、英雄視されて、人々の心に刻み込まれていった。武は和名でワカタケルや武の出身地であるヤマトを付けて、ヤマトタケルと呼ばれた。武は最終的に関東まで周遊を行い、九州と東国との交流を活性化させ、九州が蓄えていた中国由来の知識を東国へ浸透させた。これにより東国で王権の成立が加速することになる。

特に武は畿内での王権の成立に強く貢献した。しかし、王権の成立は各地、各部族の討伐も伴い、武はその過程で東国での平和な関係を大きく毀損した。武の手法は東国の人々にとっては汚かったのである。それが後々怨恨を残すことになる。少しだけ付け加えると、王権成立の過程での討伐はほんの一部で他の地域は王権を個別に主張する野心も意義も持ってはいなかったから、自然と畿内の王権に従っただけである。戦争によって屈服させて支配するという構造は日本についてはあまり当てはまらない。日本人は権力を持つ者の正統性を各人、自身で認めれば、自然と従うそういう性質なのである。武の名声の甲斐があったのかもしれない。

武によって畿内で強力な王権である大和王権が成立した。ヤマトは武の呼び名から取られたものである。また、武は九州の王であるので、畿内に残ろうとはしなかったが、有力者との間に子種を残し、武の子孫の何人かは大和王権において大王になった。

武が九州から東へ旅をして大和王権を成立させた功績を元に記紀において東征を行った「神武」が作られ、王権成立の功績を元に王権強化が描かれる「雄略」が作られ、各地での英雄的な活躍を元に「日本武尊」が作られ、武の強引な手法から暴虐非道な「武略」が作られた。記紀は、天智以前の多くの大王をこういう仮想的に作られた人物や各地の有力者を当てはめ、年代などを変更して天皇家という家系の一員として紡いだ一大物語の傾向が強い。

武は最終的に大和王権の大王になったわけではないが、その偉大な事績を元に天皇家における複数の人物として仮想的に作られたわけである。それほど、武が大和王権に果たした事績は大きいのである。

畿内から武が去ってしばらくすると、武の強引な手法によって掻き乱されて恨みを抱いていた畿内の有力者らが政権内における、武の影響、つまり、子孫の排除を行った。そして、大王となったのが継体である。継体大王は畿内の粛正を完了すると、怨恨を晴らすために九州の討伐を行うことになる。

経済力的には畿内が九州を圧倒していたために、九州倭国は畿内の大和王権に征服され、倭王は筑紫君に格下げされることになる。これが磐井の乱である。乱と言っても、九州で反乱が起きたのではなく、畿内が侵入してきて征服しただけである。日本は九州と畿内とで2つの王権が存在したが、畿内が九州を征服したことにより、事実上、日本が統一されたことになる。そして、九州の倭国は独立性を失い、半島への関与もできなくなった。そのため、半島では百済と新羅が領土を拡張し、倭国直轄の任那は縮小していくことになる。

その後、政変を繰り返して、天智大王が天皇家の創始者になる。おそらく、天智はそれ以前の大和政権の大王とは男系で繋がっていない。天智は、半島を拠点にしていたが、一応、倭人である中臣氏に担ぎ上げられた大王でしかない。また、継体から斉明まで何回か血統が切れたりしたが、天智の後は血統が長期にわたって続くことになる。ただ、天智の後の天武でまた血統が切れるが、その後、天智の血統に戻る。天皇家の万世一系は天智から始まったと見なせる。

というような家系が天皇なわけ。

天皇家は紀元前660年に始まったわけでなく、大体、西暦700年ぐらいから。そして、畿内を中心とする王権が始まったのは西暦500年ぐらいから。それ以前は九州以東は悪く言えば政治的には原始的で、良く言えば平和な世界であって、九州だけが王権や地域での覇権争いをしていた。九州も統一されたのは西暦400年ぐらいでそれ以前は九州の北部地域しか統一されてはいない。3世紀の卑弥呼の時代の倭国は九州の北部半分未満しか支配圏がなかった。

一般に言われている天皇家の歴史とは違うけど、自分はこう妄想してるし、これが正しいと思ってる。